regalec243のレビューコレクション
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君といつかの再会をインパクトの強い冒頭シーンから始まる、緊張感の持続が巧みな作品でした。 イベントや登場人物の背景情報提示のタイミングや、学校での描写パートと電話パートが交互に来る点などがお話にメリハリを生んでいます。 何よりも、一見平穏な日常場面の中に不穏の種を仕込むような文章がとても魅力的でした。 @ネタバレ開始 最初の回想からして、「これは、私が後になって生み出した、妄想、だと思われる。」という文章が挿入されるように、主人公に信頼できない語り手の側面がある点も緊張感の維持に大きな役割を持っていたように感じました。 現代シリアス路線で物語が進んでいたので最終盤の展開は意外でしたが(ニヤをずっと疑っていました)、冒頭をはじめとして叙述的な面での仕込みも上手で、中心の仕掛けには風邪明けの描写まで全然気が付きませんでした。 「純粋な存在」というのは、「庇護」や「憐み」といった語との親和性が高い印象があります。 この言葉を用いる時、そもそも無知であるか、害を成しえない存在として侮っているかである、という側面も確かにあるかもなと、この作品を読んで思っていました。 @ネタバレ終了 タイトル画面の空の色と肌や服の色とのバランス感も薄幸な感じできれいです。 制作ありがとうございました。
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サブレキャットヘヴン『アリスニャットシング!』の前日譚にあたる作品です。 前作のような穏やかな雰囲気で進むのかなと思ってましたが、最終的には猫に振り回されているかのような作品だったように感じます。 少しの間しか出てこないキャラにも立ち絵や一枚絵があったりして、なかなか賑やかな印象を受けます。(城ヶ島さん変わりすぎてびっくり) インパクトが非常に強い強いOP・EDをはじめとして(聴き直すとほぼ同じ歌詞なのですね)、BGMがあまり見ないタイプの曲を使っているのも創作って感じで新鮮でした。 @ネタバレ開始 前作に引っ張られて、キッコの物語として主に読んでいました。 作品の猫又像が印象的で、ただの現象としての生命の停止が、人の認識と想い・しがらみによって輪郭を持ち、終わりの先にも残っていきます。 別の言い方をすれば、人との関わりが深くなると、終わりはすべての終わりであるような厳しくも自分勝手な猫と人のあり方は成立しません。 先が長くないことを予感しているキッコにとっては、これは救いでもあるし重荷でもあるのかもなと思っていました。 前作の言葉を借りると人間は亡霊として死に続ける以上、終わりが見えているフェーズにおける言動は、亡き後の仮想の未来から制約を受けるものでもあります。 周囲の配慮を知り周囲を愛しているからこそ、「拗ねているもう一人の自分」をひたすら秘匿し。未来のための亡霊像を作っていく、そんなキッコの強さの源泉を勝手に感じていました。 ニヤは良くも悪くも亡霊に囚われ続けていることも本作で分かったのは、少し複雑な気分ですね... @ネタバレ終了 制作ありがとうございました。
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白い日傘とアンデッド題材を活かした仕掛けを使いつつもラブコメ一直線という作品でした。 ループと組み合わせるのが面白い発想だなと思って読んでいました。心霊ものには空間的に閉じ込められることってよくありますが、それがあれば確かに時間的な閉じ込めもあって自然ですね。 ヒロインの立ち絵も色々珍しい小物を使っていて、少しミステリアスでありつつ可愛らしい感じに仕上がっています。 特に上品なイメージを連想しがちな日傘を、快活で少し抜けているヒロインに組み合わせるアンバランスさがとても魅力的でした。 @ネタバレ開始 アンデッドや怨霊が現世(生)への執着であるということを、Happy Endの最後できれいに回収するという発想が鮮やかで驚きました。 何で「アンデッド」という語を選んだんだろうというのはタイトルから気になっていたのですが、deadの否定(un)を前面に押し出した概念だからかなあとか、ケーキが食べられて臓器に問題がない、ということは必然的に心臓も対象だよなあとか、勝手に納得して感心していました。 @ネタバレ終了 冒頭の3回繰り返される「一面の向日葵。」が印象に残る夏らしさを感じる作品でした。 ありがとうございました。
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アリスニャットシング!詩的な言葉選びと繊細さが印象的なフレーズの多い作品でした。 アイキャッチやロードムービー的な移動のシーンなど、場面転換の見せ方も工夫されている作品です。 出会いと偶然と不思議と淡い期待とが旅だなあという感じがします。 @ネタバレ開始 思い出すという行為には、その対象が常に過去のものであり、過去とは喪失されたものであるということが暗に含まれています。 この作品の大きな魅力は「死に続ける」という言葉でそこを露わに取り上げている点だと思います。 想うという行為はまた、残されたものや想像したものから、対象の人や物を再構成する個人的な思考プロセスでもあります。 記憶に焼き付けようとして想えば想うほど、他者は自身の思考と混ざっていき、悲しみも本当の他者も輪郭を失っていってしまう。 それでも、そのことを否定的にとらえなくてよいということが、ありすがこの旅で得たことなのかなと願います。 依然として社会生活に戻れていないし世界は厳しい海であるけれども、そありすが前を向いていけることを願います。 サブレの存在はもしかしたら救いなのかもしれませんね。 明確な方向性を持たない想いの具象として描かれるサブレは、最後にはありすが気づかないところでありすに影響を与えていました。 残された者の想いは、私たちの認識とは独立に私たちの一部になっている。これは希望なのかもしれません。 @ネタバレ終了 あと、作品の本筋と関係ないですが、写真素材は城ヶ島周辺のものが多そうですね。神社に続く階段に見覚えがある気がして、作中のヒントで気づきました。 制作ありがとうございました。
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つくも3回サンク会話は軽快に心情描写は繊細に、とても引き込まれる文章の作品でした。 「サンク溜まり」と化してしまった主人公宅に突如生成された妖怪?に願いを叶えてもらう話なのですが、願いを叶えるという行為の持つ利己性などを扱いつつ、複数の二項対立的な概念がうまく混ぜあわさった作品となっています。 ...後は作品の底流にラーメンがなんかずっと流れてます。 絵は写真ベースの背景にふわふわしたキャラが描かれているバランス感がよかったです。楠木さんの、手を前で合わせてる立ち絵が特に好き。 @ネタバレ開始 主人公の思考がメタ認知的なのが印象に残っています。妹が難病を患っていることを「ありふれた不幸」と描写したり、悲しみや祈りを「ゆくえのない心の置き場が欲しいだけ」と称したり。 それは現実への諦念で、その諦念が、現実に圧し潰されないための拠り所で。 その点この兄妹の考え方がすごく似ているのですよね。他者に関わることに対して、救う可能性よりも傷つける可能性を見てしまうことも含めて。 でも、水槽の魚と私たちで決定的に違うのは、その境界に絶対的な隔離壁がなく、関わらないという形で関わることを選択してしまっている点だと思います。 他者の気持ちをどう考えるかというのは本質的に利己的で、でも、それは悪なのかということを問われている気がします。 物、人の命、関係性、すべてのものは最初から終わりが運命づけられています。その終わり自体は意味を持たない当たり前の現象で、意味を与えるのは私たちの利己的な自己認識です。 急須の終わりがつくもさんや楠木さんとの関係性の始まりを意味したように、新たな関係性は絶えず構築されていきます。それらが今ここにある偶然を慈しむのは大事だけど難しいな、とそんなことを想っていました。 あと、最後主人公が泣くことができたのがすごくきれいな締めでした。 @ネタバレ終了 素敵な作品をありがとうございました。
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せめて、笑ってくれたなら。ピアノを基調にしたBGMと詩的な表現と鋭い心情描写が魅力的な作品でした。 特に心情描写に関しては、硬派な本も含めた関連テーマの下調べと読み込みが血肉化されているような印象があり、非常に興味深かったです(例えばコミュニティ論であったりグリーフケア論の片鱗が見えたり)。 関連して、物語の幕観に厚生労働省調査などの資料が補完の物語の一部として提示されるのですが、この試みが内容としてもノベルゲームという媒体の使い方としても非常に面白いです。 現実世界の普段見えにくい一面を垣間見せ、考えるきっかけをくれるような物語は大好きで、特にSection 3の最終版の仕掛けには大興奮でした。 ここからは作品を通して考えたことを書きます(作品の意図からずれる解釈も多いと思います)。 かなり大きくネタバレを含むので、作品を通読してから読んでください。 @ネタバレ開始 この作品で読者が何度も反芻することの一つが、主人公達の行動は正しかったのか、救える道はあったのか、ということだと思います。 登場人物たちの様々な行動は様々な形で裏目に出ていきます。 「笑顔は自然に出てくる」や「笑顔が明るくする」という一般的な励ましは、この世界の「ふつう」から拒絶させていることを美笑に再確認させ。 癒しのつもりのピアノは、今は亡き詩織への想いと約束を強く誘起させ。 「時間も解決の助けになるだろう」という期待は、今そこにある危機への感覚をにぶらせ。 翔と美笑の出会いを企図したと思われる詩織の約束は、二人の別れの舞台を提供することになった。 良く知られているように、うつ病患者は続いた抑うつ状態が寛解するタイミングは特に注視が必要で、一般に活動性の増加に伴い自殺リスクが高くなります。皮肉にも一瞬の希望を見せたことが引き金を引くことになってしまった、という見方もできます。 登場人物たちの行動は、問題の解決に意識を向けすぎた点や、行動を意識しすぎ傾聴が抜けていた点は勇み足だったかもしれませんが、それでも基本的には模範的だったと思います。 そして、それぞれ手を伸ばせるタイミングがあったものの、その選択をとれませんでした。その選択肢を奪ったのは何だったのでしょうか。 1つ思えるのは美笑のおかれた環境が非典型的だった故に、辛い(理解できない)環境/ましな(理解できる)環境 という壁を作ってしまったのではないかということです。手を伸ばせば、本当はそこに本当の壁はないことを知るにも関わらず。 とはいえ、それは個別的事情を平坦化し差異を見ないことにすることではないことが実践面では難しい点だなと思います。水樹の場合で祐を追い詰め高い壁を作らせてしまったように。 優也の考えるように人はコミュニティという相対化と均一化という力学の中で生きているので。 もう1つあるとすれば連携の話で、支援者間の情報共有等がもっとあれば、違和感に気づける可能性や目を離さないことで差し当たっての危機は回避できたかもしれない、ということを考えていました。 ただ劇が始まる前に何とかしなければどうしようもなかった感もあり、やっぱり難しいテーマですね...。 この作品のもう一つの軸として突然の死をどう受け止めるかという話があります。 グリーフ・ケアについてはウォーデンの提唱する4つのタスクがよく知られています。これは「喪失の現実の受容」、「悲嘆の経験・克服」、「死者なき環境への適応」、「死者に向けた感情の向け直しと新たな生活の踏み出し」のようなものから構成され、主に4つ目のタスクで遺族の中での故人の位置づけが変わっていきます。 また、事故死や自殺などの突発的な死に対しては、その理不尽さから故人の死の意味や生きた意味を強く希求するケースが多いともいわれています。 劇中では罪から道標へ、嘆きから決意へ、登場人物が一人一人のペースでエネルギーを外向きに変えていくことが描かれます。 美笑のケースは主にエピローグで語られるのですが、ここで美笑の生きた証を残すといった時に、その「美笑」は何を指しているのか?という点が引っ掛かりとしてありました。 私たちは、劇中で一度でも真正面から美笑と向き合いましたか? たった数日の邂逅で彼女をどれだけ理解できたのですか? 「せめて笑ってくれたなら」、劇中では二重の意味を持つ言葉ですが、その題名が部分的に含むように、そこに描かれるのは遺されたものの後悔と罪悪感であり道標となる十字架に他なりません。 ...でも、それでいいのかもしれませんね。壊れたもの元には戻らず、冷酷にも故人はどんどん個人的なものになっていく。物語は遺された自分たちのために紡がれる。 また、グリーフケアの観点でも、制作を通じて遺されたものの語りの場を形成し、過去を昇華する外へのエネルギーを持つことの意味は大きいです。 実際、翔には、表向きは前向きなものの、詩織の際に現実の受容に時間をかけたことや直接の遺族である点で、かなり危うさを感じていました(とりあえず守護霊の話は抜きにして)。 過去の喪失を決意に転嫁していた奏恵やみどりもその位置づけの再解釈をすることは避けられません。 その悲しみを個人のものとして不可視にしてしまわない、ということは悲しみを考えるうえでやはり大切だと思います。 @ネタバレ終了 プレイヤーが作品を、そして作品を通じて現実を考えることに主軸に置くという面白い体験の作品でした。 制作ありがとうございます。
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ジュブナイル・イクリプス/フリーゲームエディション実は結構テーマ主導で、内省色が強めでもあるという珍しいタイプの作品でした。 初回は固定のルートですが、物語的にはそこまでが実質的に導入部みたいな構成です。 特に気に入っているシーンは雫ルートの公園のシーンです。 以下割と独自解釈の考察に近い感想になります。 @ネタバレ開始 最初の秀樹ルートを読んでいる時は、性に縛られた関係性否定の文脈なのかと思って読み進めていました。 同時に、「この姿なのに」とか「この姿だから」といった性規範が登場人物に垣間見えることに、違和感を覚えてもいました。 雫ルートを読み始めると、秀樹ルートの逆の議論を提示していることに気が付きます。我々の関係性や理性・感情というものは、外見的な性など肉体的な要素から逃れられない。 これは、美由美ルートを経てグランドルートに至るにつれ、より一般化された話題になっていきます。 面白いのが、征木にとって「別の姿」が、他人が求める役割としての自己の擬人化(?)となっている点です。征木は内なる自分との非一貫性を自覚することでアイデンティティの危機に陥るのですが、そのきっかけとして征木の特殊性がフォーカスされます。 マイノリティ属性を多く持つからこそ、「別の姿」に埋め込まれた他者の物差しが、内なる声として絶えず自己を否定し、自己の分裂が顕在化する。この内面描写が結構生々しいなあと思って読んでいました。 この視点を持って再度作品を眺めてみると、我々の性質や属性は無数にあるにも関わらず、他者認識のフィルターの中で外見的な性が特権的な属性の1つになっていることに気づきます。愼治なんかも典型ですが、他者のプライバシーの侵害を無邪気に正当化してしまうケースすらある。 @ネタバレ終了 この作品の大きなテーマは現実の社会でも問われてきたし、これからも問われていくのだろうなということを思いました。
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隣人と和解せよニアちゃんがいたいけで可愛いというのに尽きるのですが、優れたゲームデザインがその魅力を一層高めている作品でした。 主人公が話しかけるとえもふりを使ってニアちゃんが動いてくれるのですが、次の工夫からプレイヤーが意識せずとも細かなアニメーションを注視できるようになっています。 ・あえてキャラにかぶせる形で選択肢を配置しており、選択後に視点を動かす必要がない ・ニアちゃんが喋れない設定がうまくはまっており、選択後画面で見るべき対象がニアちゃんだけになる そもそも、ノベルだけどキャラを喋らせないというのがゲーム媒体を活かした発想で面白いです。 エンドの中では2が個人的にはかなり好きでした。 後、エンド分岐後セーブするとED毎(一部はタイミングによって2種類)のセーブタイトルがあるので、それも見てほしい。
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ムーン・サイド・リバー時は15世紀末のイギリス、薔薇戦争のさなか。実際の史実を舞台背景として参照しながら、薔薇戦争で対立した両家、ランカスター家とヨーク家の王女と、剣術に類まれなる才能を持った平民である主人公の交流を描くお話です。 作品の紡ぎ方が面白い作品です。基本的に登場人物の一人に寄り添う形で物語を紡ぐのですが、情景描写・心情描写を含めて「~しました。」という文体を基調に描かれています。この語り方のため、まるで吟遊詩人が語る伝説を聴いているような独特な感覚があります。 そして何よりも、作品全体を通して、物や仕草を表す表現の豊富さ・鋭さに驚かされました。似たような表現が繰り返し使われるのを避けていて常に表現に新鮮さがあるのに加え、適切に選ばれた装飾語はセリフ以上に心情や街の空気を伝えてくれました。 物語の設定は、例えば「ロミオとジュリエット」などを思い起こさせますが、お話は予想を裏切ってくれます。望まずして手にしてしまっているもの、手を伸ばしても届かないもの、三者三様の葛藤が、史実とファンタジー・未来と回想が入り混じる中で儚く光ります。その中でも捉えどころがなかなかない主人公が魅力的。 立ち絵も可愛いですね。紹介にもある絵のヴァイオリンも、魂柱が書かれていたり、顎あてと顎の位置が自然だったりとかなり凝られていて、嬉しくなりました。 この作品で史実の薔薇戦争についても俄然興味が湧き、調べつつ楽しませていただきました。 ありがとうございました。
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天性の盗人メイン画面のデザインが凝られた作品でした。 放課後の教室を使って部室とするこの感じ、無造作に置かれた椅子や演劇部員の立ち振る舞いなど、高校時代の部活の空気感が一枚のマップで巧みに描かれています。懐かしくて羨ましかったです。 おろおろしてる次皿ちゃんも可愛いし、エンディングでの工夫もとても楽しめました。 タイトル画面の一人黄昏ている次皿ちゃんが特にお気に入り。