Alper Kaan Bilirのレビューコレクション
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少年と天気雨ミズナツ様、お考えになったことがありますか?世の中がフィクションかもしれないものに支配されること、そして人々がそれに気を配らず生きていることを。 例えば、偽札を作った人はつかまると刑務所に入りますし、誰もそれを疑問に思いません。しかし。それは本当に当然な報いでしょうか。そもそも「金」とはなんですか?物理学にある「エネルギー」や「トルク」のように、目に見えなくても存在する実体なのでしょうか。口座に書いてある数字は、それを計るのでしょうか。あるいは「金」とはただのフィクションなのでしょうか。もし「金」は完全なフィクションなら、購買力を減少させず「金」を無限に創造することも可能なはずです。はたして本当にそうであろうか。それらの答えは、経済学者のあいだでも定かではありません。 「金」の印刷は国家の権利だとされています。しかし国家そのものはフィクションかもしれません。 例えば、フランス人と呼ばれる国民は実在しているでしょうか。それとも、ブルボン王朝が発明したアイデンティティーですか。中世の頃、だれも「フランス人」と名乗らなかったし、現在フランスと呼ばれる地域では20以上の言語が使われたのです。そしてドイツ、イタリア、スペイン、ロシアという国々はまだ創立されてなかったし、自分のことを「ロシア人」などとして思う人もいませんでした。 なら「フランス人」とは現実なのか、便利なフィクションなのか。考えようによってはどちらも正解かもしれません。国民とは、国家とはフィクションならば、偽札を作る人に罰する権限もフィクションになりませんか?それ以前に、もし「金」そのものはフィクションならば「偽」も「本物」もないのではないでしょうか。誰も上記の件に関しては悩みません。 しかし誰も彼処も、神の有無にこだわるのです。人間は誰でも、高校生になると一度でも神の有無を言い争います。人生に大きな影響を与える、実在しているかどうか怪しいものは他に幾らでもあるのに、おかしくありませんかね。 私が思うに、その原因はこうです。国家には人を生かす力も殺す力もあるのに、なにが正しいか決める力がありません。 アメリカのどこかに、大麻を喫するクセのある、14/15歳の男子が好みの女性がいるとしましょう。彼女の欲望はアメリカでは違法です。しかしメキシコやドイツでは許されています。もし女性はアメリカの法律から逃れたかったら、それらの国へ引っ越すことが出来ます。頭が充分に切れるのでしたら、つかまらないように注意しながら法を破るという選択もあります。 ですがもし大宇宙の創造者がありましたら、それが禁じたものが正しいはずはありません。神を信ずる人は、神のおきてを破るとき「罪を犯している」という自覚から逃げることも隠れることもできません。 ウディ・アレンが書いたある舞台劇にはこういうシーンがあります。天使に出会う主人公には、何でも一つだけ質問を聞くチャンスを与えられる。主人公は「神はいるのか」と聞く。天使は「他にかける質問はあると思う」と言う。そして主人公は「いいえ。世の中にはこれしか質問はない」と言う。 中国や韓国の映画はいざ知らず、西洋の映画には必ず神はいます。姿を現さなくても神は、まぎれもなく、います。 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の場合、主人公マーティは過去に旅をして歴史の流れを変える。その結果、マーティは世の中から消える危険に遭う。運命を軽くみたため、マーティに罰が当たる。 彼はミスを取り返せる。しかしそれは、マーティが運命をいじったのは無邪気な事故だったお陰です。結局、マーティを自分の時代に送り返してくれるのは、空から降臨する天の力、落雷になります。 キャラクターが神の管轄に足を踏み入れると必ず天罰が下ります。「インセプション」の場合(夢の中とはいえ)神のように振舞って無から都市を創造する、妻の志向まで操る男は、妻を含めて全てを失います。 「フランケンシュタイン」や「ペット・セマタリー」の場合、死んだ人を蘇らせる人はとんでもない災いを引き起こします。「バーチャル・ヴォーズ」の場合、白痴を天才にする研究から、超能力を持つ人殺しが出てしまいます。「ジュラシック・パーク」から「スプライス」まで、遺伝子工学が化け物を生み出す映画は数知れず。 日本のノベルゲームが西洋で大して売れてない理由もまたここにあります。舞台にもバックグラウンドにも神がいないから、例え上手い物語でも西洋人のプレイヤーとは共鳴しません。 「しかし私は神を舞台に出している」と仰るかもしれません。いいえ。神を出す一歩前にお止めになったのです。 確かに「少年と天気雨」には神として拝まれる狐が登場します。しかし最後の最後で彼女は、神であることを否定してしまいます。 そして、主人公の母の死。もしかしてそれを、最初は奇跡の種にするおつもりでしたか。書く途中でその話題を棄てようとお考えになったのですか。だとしますと本当に惜しいですね。作家の勇気は執筆の調味料です。 あっ、すみません。私は出版業界で生きてきて翻訳から劇作までどんな仕事でもしました。なので「評論」を始めるとなかなか口が止まりません。長いメールを最後まで読んでいただき、誠にありがとうございました。 Alper Kaan Bilir alperkaan@hotmail.com